美味しいものを美味しいね、と言い合いたい。

デートごっこも無事に終えた。しかし、割り勘で、デートごっこと言えるのだろうか。それに、料理を生業とする人なのに、餃子と麻婆豆腐と八宝菜で良いのか。同じ餃子を食べに行くのであれば私は小汚い中華料理屋で香草たっぷりで八角の香りが匂い立つ汁麺とともに食べたかった。食にこだわる人とグルメと食いしん坊とは違う。センスというのはやっかいなものだ。あセンスが似ているパートナーに巡り会えれば幸せだ。ああ、また過去を思い出す。いけない、いけない。

 ルックス的にスウィートスポットで人も好くて、スポーツもできて、仕事もできて頭も良い(妻子持ちの)同僚は、仲も良いし、こういう日本人なら好きになれるのではないかとじっくり(無意味に)考えてみたりした。でも、ふとした瞬間に食べるもの、聴く音楽、見てきた映画、で日本の大学に入りたて頃のふーっと違和感を感じた自分が重なる。わたしと違う、と思うのである。かたや古い音楽ファイルからデペッシュモードとかニューオーダーだの出てきて、「僕も前から好きだよ。」などと共通項無いじゃん、と思っている非日本人に言われると同じような青春時代を過ごしたんだな、と思う。でも私の母語は日本語で、帰る先も日本。ジレンマ。

 最近「デート』した日本人を並べてみると、ちょこっとだけしか年下じゃなかった、食べる事が好きな人は自虐キャラと海外コンプレックスで×。その人と同じくらいの歳の料理を生業している人は、会話も噛み合なければ外でごはん食べるときの感覚がまったく違う。センスも好くて、一つ上で、頭も良くて同業の人は、リズムが違ったし中性的過ぎた。2つ3つ上で背も高くて、人も好くて素敵なレストランで美味しい食事をごちそうしてくれた会話も弾んだ人は色気と感じなかった。
 だいぶ上の非日本人は、初めてのランチで見合いの様に真剣なおつきあいしたいですオーラが強過ぎた、そのわりには息子と娘の自慢と苦労話が過ぎた。米軍人や警察官の戯れに付き合う気は毛頭ないし、一神教の回教という垣根を越えてまでお近づきになりたいと思う人もいなかった。妻子持ちで節度があると分かっているから、格闘技の有段者と水泳体系な同僚の流し目が色っぽいと思うのであって、単体だと美味しいね、と言い合う関係ではないだろう。

そんなときに観た映画、kissing jessica stein は名作だと思う。