いつも人生には何かが足りない

 来週、ここの古都に遊びに行く打ち合わせのランチをしよう!と新しい弟のZから携帯メールが入った。彼はついこの間大学をでたばかりだ。私が大学を出たのは15年前だ。週末にZの友人とRiekoと私の4人で車で旅行して1泊しよう、という計画だ。30過ぎのRiekoと40近い私で遠い過去を思い返す。学生時代っていうのは男女でプラトニックに旅行に行ったものだ。きっとそういう感覚なのだろう。深読みしないで若者達に付き合うこととしよう。

 若者とは若さで自分が優位に立っていると思っている。30代の楽しさと、20代になんか戻りたくないという大人の気持ちを知らないから。だから、私が得意げに自分の年齢を言うと慰めてくれる。なぐさめたいのはこちらの方なのに。そんな哀れみを20代に感じていると、その20代と遊んでいる自分を自分で哀れんで一人落ち込んだ。もっと自分の年相応の人達と付き合わなくてはという焦りからくる落ち込み。もっとどん底に落ちておくためにRevolutionary RoadのDVDを観た。平凡で幸せな家庭の息詰るような苦悩で終わる、救われない映画。同僚曰く、人生とは一生重荷を背負って歩くもので、荷物を降ろそうなんて思ったらいけないのだ。私はそれを、人生とは常に何かが足りないものだ、と言い換えたい。そして私には安定と冒険が足りない。分別が多すぎるからRやGのようにアバンチュールに身を任せられない。高貴ぶってこんなに男っけ無し状態を続けて良いものだろうか。

 DVDを挿入する前には、今度日本に帰るときには同僚に一人ずつ美味しい物が好きな結婚願望のある男性を紹介してもらおう、と心に誓ったのに、映画を観たら自分に結婚願望が果たして有るのか、子供が欲しいのかに自信がなくなった、また。早く平凡な家庭が欲しくて結婚したのに、適わずやむなく離婚したら、雷に打たれたように、可能性が無限大に広がる瞬間を体感した。「これで私は何でもできる。どんな人生も送れる!」と。でもこの何でも、は何でもを叶えてくれる夫と出逢う事であって、自分で切り開く予定じゃなかったんだけど。もっと明確に男性像を想像しておけばよかった。足りない。足るを知りたい。